Mさんの逸話
2020年11月23日
11月1日、私はオホーツク管内滝上町へ向かった。滝上町に小檜山博文学館が開館する日で、十勝から3人が出席した。私たちは小檜山文学帯広支援会の会員だった。会を率いていた会長と副会長は鬼籍に入り、会員も亡くなった方々がいた。
講演会が開催され、夜は祝賀会が開かれた。支援会を代表してのあいさつを頼まれ「小檜山文学に出会えてよかった。文学館の開館おめでとうございます」と私は短く祝した。小檜山文学は北海道の風土と農民として生きる人々を描いて共感するファンが多い。そのせいか私たちの会にも農業を生業とする会員が多かった。その一人がMさんだった。
Mさんは清水町で農業を営んでいた。彼は文章を書いていた。「町民文芸」などに戦争体験記を載せていた。戦争という惨状で懊悩する兵士であるMさんが分隊からはぐれ夜道を歩いていると地下に落下し気を失うと、介抱してくれたのが中国人夫婦という話。そのMさんと私は親しくなり交流を深めた。彼はバイクに乗り芽室の私の家まで長いもを届けてくれた。私は36歳、Mさんは60代半ばだったか。
ある時、彼は自分の農場で雇った女子高校生にバイト代以上の施しをした、その話を私に打ち明けた。時期的に夏の畑の草取りだったのかもしれない。彼女は修学旅行を控えていたが、「修学旅行へは行きたくない」とMさんに漏らした。どうして?、とMさんはいぶかった。彼女はためらいながら、
「歯並びが悪いから、同級生と笑って話しができない」と応えた。
Mさんは、私にできることは何だろう、と思案したという。彼女の願いを叶えるために、歯の矯正費をサラ金から20万円ほど工面し、毎月返していった。もちろん妻には内緒だった。女子高生は笑顔で修学旅行へ向かった。
欲と利害に占められた現世において、凡夫の理解が及ばない人が存在する。Mさんはまさにその特異な人物だったと回想する。時々、柔和なMさんの顔を思い浮かべる。
◎プロフィール
商業デザイン、コピーライター、派遣業務などを遍歴。趣味は読書と映画鑑賞、時々初心者料理も。