初冬の空の下で
2021年2月 8日
初冬を迎えて寒さが身に染みる。取引先への支払いで銀行へ振り込みに行く。ATMで済ませて外へ出ると、近くに住んでいたKのことを思い出す。水色の空の下で吹き荒れる寒風に悲しみを感じてならない。
同い年の彼は個性が強い男で、どことなく生きてゆくことのままならなさなのか、何か哀しさと遣る瀬無さが混在しているようにも見えていた。彼には音楽が精神の根幹にあるのだった。高校時代は吹奏楽でトロンボーンをやっていた。
「バッハを徹底的に聴いたらいいよ」
「フルトベングラーは別格だな。カールベームもいいな...」
「ベートーベンは一通りしっかり聴いて置かないと」
などと言っていた。
昔、クラシック音楽について延々とえらそうに喋っている男がいて肚が立ったらしく、それから猛烈に勉強してさまざまな曲を聴き続けてきたのだ。
Kは某音楽大学を目指して東京で勉強していたが、父親が病気で亡くなられたことでやむなく諦めて帯広に帰ってきたのだった。いくつか働きながらもクラシックを聴き続け、地元の著名なバンドにも所属して演奏活動もしていた。
そして彼は一時期ラーメン屋をやっていたことがあり、ぼくはその店へ初めて食べに行った時に店内でクラシック音楽を流していることに意外性を感じ、そこから知り合いになった。昔風の醤油ラーメンはとても旨い。以来、時々食べに行ってはビールを飲みながらぼくも聴いていた。聴くのは好きでも知識があまりないぼくに、いろんなことを教えてくれていた。
「BGMとして聞いているようでは駄目なんですよ。スピーカーの前に向かって座り、じっと集中して聴かないとわからないものなんだ」
眼鏡の奥の眼がジロリとして厳しく言った。
ある時、彼がベートーベンピアノ協奏曲第5番を聴いているところを見たことがある。まさに空間を泳いでいるその曲にその世界に、全身で向かっているように見えていた。凄い、聴くとはそういうことだった。何千回となく聴き続けてきた男だった。
幾度となく酒も飲みに行って語り合った。しかし飲み方が強くてウィスキーなどロックでいくのだ。
「そんな飲み方するなよ」
「オレが飲んでて酔い潰れたりしたことなんかあるか」
と、笑った。
「何を言っているか、気を付けろよ...」
いつしか入院したことを知って驚いた。病室に入ると彼は苦笑いして、脳梗塞だった。
翌年の夏、日本はうだるような猛暑のある日、彼は出先から帰宅し、夫人が戻って来たら、彼は長椅子に横たわったまま亡くなっていたのだった。あぁ、なんということか...彼の身体がかなり弱っていたところを暑さが連れていってしまったのかも知れない。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。