No.1,464
2021年3月22日
昨年来の行動自粛要請の波に乗り、夜な夜な自宅で大人しく過ごしつつ。
本来生き物は、ソコでの環境に案外即座に対応し得るもの。さも無くば厳しい自然環境下、何十万年も命を繋ぎ現在が有る訳無し。皆さんも緊急事態宣言発令で、自身や家族・職場への影響を社会目線から鑑み、行動自粛が身に付いた事でしょう。
一年前は帯広でも「マスク」が何処の店頭に入荷したとか、SNSで拡散されていたもの。実際、日頃人に接する事なく過ごしマスクとは無縁のボクですら、「イザ!濃厚接触時」に備え自作マスクへ挑んだし。それも驚きでしょうが、この丸一年マスク社会に変化してからを振り返ると、10回程度の場面でしか着用していません。大抵の方は不可思議な思いでしょう。「山の中で一人、自給自足生活でもあるまいし」と。でも案外、夜の街に出なくなると、それで事足る程度の接触生活なのです、もともと。それでも胸ポケットには不織布マスク一枚常に入れてはおりますが。
昨春、帯広の人通りのない歩道をマスクをして歩く姿を不思議な気持ちで見送っていた。その後も行交う車中一人運転するマスク人の光景にも同様に。テレビのニュースで大都会の、密なる生活圏と違いを相対視しつつ。そして昨夏頃だったか、十勝でも感染者増加が日々報道されるようになると、矢張り勝手が変わって来た。常識の変化が現実的に方々田舎町へも形となって伝播し。
「同調圧力」「マスク警察」と、当初メディアで取り上げられるも左程時が経たぬうち、世界中隅々までの人々が「マスクで安心を買える事を身に着けた」。それはウィルスからの安心、と世間の目からの安心。マスク一枚で、見知らぬ人からの攻撃を避けられるのならば、安いもの。
ハタシテ、ウィルス収束なった暁に「人はマスク」を手放せられるのか。そして又、逆に人前での明らかな理由なきマスク姿が「失礼」へと回帰せぬか。
「昨日の常識は今日の非常識」の繰り返しで、「時代」は創られる。