No.1,520
2022年5月23日
生命に関わる事件報道に触れる度、「一人の命は地球よりも重い」って言葉に意識は遡る。日々、世界中で命は産れ命は消え行く。もちろんボクらも、産れて来た以上はそれぞれ時間差はあるが、居なくなる。その「時間差」、身近に関わる人々の記憶が実は全てであり、当の本人には無に帰るならば0なのでしょう。
有名人の自死も伝えられ、3年に及ぶコロナ禍での生活上、「精神が詰まる」は、強く理解出来ます。生物は平均的寿命を全うせずに亡くなると、増して自ら死を選ぶ者達を「気の病」と一括りに否定的に視る。尊厳死と安楽死の線引きと、国家によっての選択有る無しの現状。これらを第三者が悪用する元になる可能性、は排除できませんが今の時代に立って「命」を考えたい。
今、ロシアの武力攻撃を目の当たりにした世界は、「自身に置き換えて考え行動を始めている」。
日々、ウクライナを戦場として攻守に関わり沢山の人々の命を消している。戦後77年、戦争により人身を亡くしていない日本は元より、世界中の人々がリアルタイムで観ている。その最中に、民間人達、そんなつもりはなかった軍人達、が名も無く「人数」として発表され殺傷され続けている。誰も彼も直ぐに、「一人の命は地球よりも重い」って、飛び込んで助ける人間は存在せず、その発想すら襲って来てはいないだろう。「他人事」に、やーっと「ゆくゆくは自分の身に降りかかる想像」、を働かせた近距離の人々から順番に腰を上げだす。
今回のウクライナ戦争に、米英主導で間接的に世界中が何かしらの関与をしている。「21世紀型、第三次世界大戦」に既に、入っている、関与している。日本の立ち位置を毅然とさせる時間が、ついに77年の時間を経て到来してしまった。これまでの様な、非核三原則専守防衛、「だって、アメリカの傘の中で日本は安心」、では通用しない時間が来てしまった。
日本として必然の責任立ち位置、今度ばかりは曖昧な逃げでは通用せまい。