栄光のシマベ服装研究所
2023年8月21日
長いこと札幌のシマベ先生にお会いしていなかったが、懐かしさ故にある日思い立って電話をお掛けした。
「近々お伺い致したいと思います」
「うちに泊まりなさい。どこかで飲みながら話しよう」
ぼくは19の時にご縁あって、当時北大の側北17条西6丁目にあった研究所に住み込みで入った。先生は東京から北海道に帰って一軒家の中古住宅を借りて工房としてスタートした頃で、中田・沢口・佐藤・山田他がいて熱気盛んな研鑽の日々を送っていた。
自分はテーラーを継いでいく為に仮縫い作りから始まった。注文が入ると、カッター中田は大判のクラフト紙を広げ、採寸書を元にドローイングを開始する。ステンレスのL型各尺等を使いながら鉛筆で、背中、脇、前身、そしてズボンへと線を引いてゆく。その姿は撓るように流れて片側の脚が伸びて浮き上がる。引いたラインに容赦しない眼が線を追っている美しさがあった。洋服本縫い職人の沢口、佐藤、山田等は縫っている洋服と自らの顔との間に貫くものと素朴な雰囲気が見えているような情景があった。皆、洋服作りに熱量があって戦っている。
1年後のある日、父が倒れたと連絡が入り、実家に帰ると軽い脳梗塞で近々復帰するとのこと。山形県出身の父は戦時中陸軍糧秣本省で化学研究をし、復員後の動乱のなか北海道に来て化学工場に勤めるも仕事にならず、帯広で注文洋服の外交を初めたはしりとなった。
一旦帰札し、退所願を申し出た。上京して新宿の洋服専門学校夜間部に入学して製図を勉強する。その後メーカーに3年勤めて帰郷した。家の仕事に就き、注文が入ると自分はドローイングとカッテイングの後に仮縫いを縫い、お客に着て頂く。過不足があれば補正をし、そうして職人が仕立てて納品となる。
しかし1年半後に父は病が再発し、再起不能となってしまった。
自分は聴力が弱くて口下手ゆえに官公庁トップクラスの方々を相手に外交など出来ず、自らを責め続けて夜の街を彷徨っては飲み歩き、仕事が徐々に崩れていった。人生が駄目になると激しく煽られていた。そして平成3年1月の大雪が止んだある日、父は逝ってしまった。
聴力が、不器用な性格が、なんだっていうのだ。自分は出来るのだと遂に立ち上がり、いつしか仕事が徐々に動き出して来た。
研究所を退職したことは堪らないことでもあり、仕方がなかった。せめて5年は居たかった。朝日が耀いて夕陽に熱気が伴っているような世界だった。
先生は東京で日本トップレベルの〈スーツ仕立人〉として活躍し、2003年東京コレクショングランプリを受賞され、著名な方々の洋服作りに邁進されていた。理知的な目と真っ直ぐに物事を考察されているような表情に、皆は惹き付けられて就いて行こうとする大きな力に輝いているのだった。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。