筆字の看板
2023年11月13日
字とはいったいどういうものかと考えると、あまりにも大きな世界ではないかと思っている。従ってぼく如きが語れるはずもないだろう。同時に言いたくないが、正直言って字を書けば汚いし人に見せられるものではなくどうしようもなく端っから諦めている。
しかしなのだが、外を歩いているといろんなところで例えば店の看板が眼に入る。そして中には気になってしまうようなのもあって、ふーむと思ってしまう。つまり店名だかを書かれたその個性的な字のありようについて感じることは、その看板を製作する前の元の字体つまり原本は筆と墨汁だとかで書かれたものではないのかなと思えるのだが。だとしたらその字面のありように違和感のような心地がしてくるのはぼくだけなのだろうか。
立ち止まって暫し眺めてみたらその書かれ方は、感覚的に、気分的に、これで行こう、と思っているようなふしが感じられてならないのだがどうだろうか。もしかして面白おかしく書いたとしても、それは一種のありようとしてのスタイルではないかと思っているのではないだろうか。
想えば、字とはそもそもどういうところからきて成立しているのだろうかということを抜きにしてはならない気がする。言葉と文字を始めとしてあらゆるものの根幹を創られたのは神であると伝えられているのだが、そういった流れからして字を書くとは、大方、上から下へそして左から右へというふうになっているのではないか。そこで書というものの世界においてもその書き方はよく云われている、起筆、送筆、終筆となって成立するとなっているけれど、実際にはいくつもの動きやリズムがあるとされているのではなかったか。
例えば漢数字の「一」という字について書くには筆触の動きが幾度となくあって書かれていて、単に筆を持って一度で書くなんてありえないのだ。
「一」を書くとは筆を持つところから始まる。スッ、グッ、グウッ、シュー、グー、スッ、だったかどうか失念しているがつまりそのようにして幾度となく気脈及び動きがあって字として成立しているとされているのではなかったか。つまりそれ以外は「字」としては成立していないということになるのだった。ということは普通に書いても意味をなさないということになってしまわないだろうか。
看板の字は読めりやいいのだといわれそうだが、そうだとすればそれはどういう方が書かれてそしてどんな店なのかな、などと思ってしまう。むしろ印刷された看板の方がすっきりしていいような気もするのではと思えるのだが。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。