アンパンマンの伯父
2024年4月22日
お腹が空いた人に、自分の顔をちぎって差し出すアンパンマン。原作者やなせたかしさんは、太平洋戦争中に食糧難を経験し「人生で一番つらいのは飢えること」との考えからアンパンマンが誕生したと自著で記していた。
私の子ども時代の出来事と重なる。小学三年生の冬休みに、家の米びつが空になっていた。遊び回る元気もなく、ひもじい思いで家にいると伯父がやって来た。「お前たち腹を空かしているのだろう」と言い差し出した紙袋にはアンパンなどが入っていた。伯父の不精ヒゲの口もとが笑い、兄と妹と顔を見合わせてパンをかじった。こしあんの甘さが口中に広がった。「おいしい」と言うつもりが涙目になり声にならなかった。
父母は働きに出ていたが、夏の日雇や出面の労働が途絶えた冬季期間は、何かの事情で生活困窮が生じたと今なら想像できる。
伯父がなぜアンパンをまちのパン屋さんで買って届けてくれたのか。後で少年の浅い思慮で考えた。母が家庭の窮状を、頼りになりそうな伯父に打ち明けたのだと想像した。父は自分の兄である伯父に、率直に生活苦を吐露して援助を願いでたとは推測できなかった。食べ物が不足している家計であれば、父のタバコ代にも欠く状態だった。禁煙は父の精神を不安定にさせ、家族に当たり散らす機会が増してくる。些細な理由で怒鳴られ、殴られるのは次男の私だった。兄や妹に父は甘かった。
父の家族観には「長男は家の後継だから大事だ」という妙な封建的な思いがあった。そもそも父の母が「長男は大事」の孫差別の祖母だった。
無意識的に父を反面教師に私は社会人になった。中毒になるタバコは吸わない、仕事を継続する。転職はベースアップのためにと決心した。人をえこひいきしない母の母性が私を穏やかさと我慢強い気質を育くんだ。おかげで先輩に目をかけられ、友だちが次々と増えていった。
アンパンを届けてくれた伯父はその数年後、冬山造材で伐採した大木の下敷きになって亡くなった。母は「善き人が先に逝く」と伯父の見返りを求めない親切な人柄にふれて悔やんでいた。
◎プロフィール
〈 心況 〉大谷翔平さんが、善き嫁に出会ったのがジム通いの時。禍い乗り越えた超人の活躍は数多の人々の光となるに違いない。