光だ... 太陽だ
2024年11月18日
月初め頃の猛暑や酷暑によって体調を崩された方々が多かったらしい。
昔からぼく自身は、太陽の男だ、夏の男だ、と言って憚らなかった。なにしろあの真っ青な空から金色のような水銀のような輝く光の陽射しというものに出合うと、ウキ・ウキと際限なくあふれるような心地で遊び廻っていたのだった。夏の男に一番相応しいのは自分ではないか...と自負していた。これほどに単純な男はいないといっていいかも知れない。
太陽がいっぱい。積丹の海。伊豆七島の海、壱岐ノ島の海...。などと光を浴びつづけて岩場の碧い水面下に水中マスクだけで潜ってその舞台を楽しんでいた。無数の魚たちと一緒になって泳ぎ回るのだった。バカにしてはいけないのだ。エーゲ海も南太平洋の海も地中海も知らないが、自分の知っているところの海でいいのだ。たくさん充分に楽しめているのだった。そして見ていないようでいてどこかちょっと2秒くらいか、メラメラと燃えている太陽をみつめている自分に誉れにも似たような異常な思いがあった。子供みたいだなと思っているのだが...。
なのに、いつしかなんだか少しおかしいなという気がしてきた。いつもの夏とは景色が違う感じがしていた。眼の前に、後頭部に、そして胸の辺りに、漂っている色合いが違うような感じがしてならない。おかしいといえば、今年は春から視ている光景や世界に対しての気分が去年までとは違うような感じがしてならない。どこか少し狼狽え始めてきているようなのだ。たとえば陽射しの世界空間は青白かったり青味がかったりしていたのに、どうしてなのかどこか水銀みたいな色合いの感じが漂っているように見えて落ち着かない。ぼくの頭がどこか変なのかな、なんて思ってみたりもするのだが。
もうそんなに若くはないから、自然に任せるしかないのかも知れないな。関係ないかも知れないが、アラン・ドロンも世を去ってしまったではないか。ともかく自分という人間のありようを、少しなのかそれとももっとなのか、どこか見過ごしてしまっているのだろうな。若い時とは違うのだったな...とそれなりに気付いたのが遅かった。
でも敢えて言いたい。これからも少年のような心を持って歩いて行きたい。それはあの世へ行く時でも持って行きたい。すばらしいことではないか。やっぱりぼくは幸せな人間だな、と思っているのだ。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。